平安時代の化粧って、現代の感性ではちょっと、ぎょっとしますよね。
国風文化といい、化粧は能面に表されるように、眉を剃って一段高い場所に太い眉を描く風習が生まれました。太いというか、ほぼ楕円ですね。
それまでの化粧は唐風といわれ、花鈿(かでん)、靨鈿(ようでん)といわれるポイントメークや、弓なりの眉など華やかな雰囲気でした。キトラ古墳など飛鳥文化の壁画に残された女性像ですね。
平安時代になると、宮廷女性の化粧は変化し、鉛や水銀を原料とする白粉で顔を塗り、紅花から採れた紅(べに)をちょんちょんと口元にさし、頬にも紅をさしました。いわゆるおちょぼ口と、チークです。
そして眉は地眉を抜いて白粉で塗りつぶし、一段高いところに眉を描きました。
その様子は『源氏物語』の中にもあり「歯黒めも、まだしかりけるを、ひきつくろはせ給へれば、眉のけざやかになりたるも、美しう清らなり」(お歯黒はまだだが、眉を抜いて眉墨を引いたので、ぱっちりとなったのが美しい)と記述されています。
で、不思議なのは、眉をなぜ抜いたのか。流行りって不思議なもので、私たちもかつて流行った化粧を振り返ると、ダサいって思いますよね。
とはいっても、この記事を書いたからにはそれで片づけるわけにはいかないのでなんとか理由を探ってみます。