男たちは頼りない!たった200名の「女鉄砲隊」を結成し徳川家康から1万石を勝ち取った女大名・池田せん

山内琉夢

大名と言えば、織田信長や豊臣秀吉など、戦上手な武将を連想してしまいます。
しかし、戦国の世には”たった200人の女鉄砲隊を率いて徳川家康から1万石を奪った女大名”がいたのです。

今回は、戦国の世を下剋上で這い上がった女大名「池田せん」について紹介します。

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夫の死と再婚

池田せんは、織田信長の乳兄弟・池田恒興の娘として誕生。織田家臣の森長可と結婚し、息子の森玄蕃と娘のおこうを授かっています。

森長可(Wikipediaより)

夫・森長可とも仲睦まじく、幸せな家庭を築いていました。しかし、1584年「小牧・長久手の戦い」で、父・池田恒興と夫・森長可が討死。

それでも池田せんは、幼い子供たちを抱えていたこともあり、悲しんでばかりいられませんでした。そして周囲からの勧めで、中村一氏との再婚を決意します。

再婚後

中村一氏(Wikipediaより)

再婚した池田せんは、1590年に息子・中村一忠を授かります。その後、夫の中村一氏は関ヶ原の戦より前に病死。

11歳だった中村一忠が、初陣した関ヶ原の戦で活躍しました。その功績が認められ、伯耆国(鳥取県西部)に17万5,000石の領地を授かり、大名となります。

池田せんはすぐに出家し、安御院となって息子・中村一忠の庇護下で隠居していました。

息子の急死

関ヶ原の戦いから10年が経ち、再び平穏が訪れたと思った矢先のことです。息子・中村一忠が、20歳という若さで急死。

中村一忠には跡継ぎがいなかったため、徳川幕府に所領の没収と御家取り潰しを言い渡されてしまいます。

2ページ目 侍女200名に鉄砲を持たせ「女鉄砲隊」結成

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