父から息子に引き継がれる「男色」の歴史!”絶世の美少年”と足利将軍たちとの関係【後編】

高野晃彰

芸事に優れた才能を持ち、輝くような美貌を持ち合わせていた世阿弥に、10代で出会って虜になってしまった室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)。
二人の関係は、義満が50歳で病死するまで続きました。

そして、息子の6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)も父の男色の血を引き、美少年を愛したのでした。

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父から息子に引き継がれる「男色」の歴史!足利将軍たちと絶世の美少年たちの関係【前編】

性的指向の多様性が尊重されるのは現代になってからのように思えますが、実は男性が男性を愛する「衆道」「男色」の歴史は古く、平安時代以前頃からありました。歴史的に有名な貴族や戦国時代の武将なども、…

父が築き上げたものを否定するも男色の血だけは引き継ぐ

足利義満と側室の間に生まれた足利義教息子ながら父親の北山文化を否定、世阿弥の甥に当たる音阿弥(おんあみ)を贔屓にしました。

義満が愛した世阿弥は能を演じる機会を奪われるなど、不遇な時代を迎え、晩年は佐渡に流されてしまいます。

父が築き上げたものをことごとく否定した義教ですが、男色の血だけはしっかり引き継いだのでした。

当時、仏教界では「男色」に寛容だった

長らく将軍不在となっていた幕府に第6代将軍として選ばれた足利義教は、将軍就任時は出家していました。元服前に出家したため、仏教の世界では天台座主にまでなったものの俗世での扱いは庶子と同じだったのです。

そのため、30をとうに過ぎた義教は還俗してから約1年後、ようやく征夷大将軍に就任することができたのです。

当時、仏教では男性の僧が女性と関係を持つことは厳しく禁じられていましたが、僧侶と若い稚児(剃髪しない元服前の少年修行僧)との男色関係には寛容でした。
もともと僧侶だった足利義教には男色・衆道は馴染み深かいものだったのでしょう。

3ページ目 義教が愛した容姿端麗な若い武士

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