西郷隆盛(さいごう・たかもり)は、幕末明治の偉人のなかでも、坂本龍馬と並んでダントツに人気がある人物です。そのイメージは「豪放磊落な性格で、配下の士卒から慕われるだけでなく、仁愛に富んだ人物」といったところでしょうか。
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明治新政府の重鎮となった後も質素な暮らしを続けており、親分肌で清廉な人物像で知られています。
上野公園にある、愛犬を連れた着流し姿の銅像からも親しみやすさが感じられますね。
「激情家」の一面も
しかし、そうしたイメージには西郷の一面しか反映されていません。彼は人づきあいがうまかった半面、偏狭な性格で、人の好き嫌いが激しい人物でした。
また、配下を平気で切り捨てたり、陰謀を巡らせ破壊活動を主導したりするなど、冷酷な謀略家としての顔も持ち合わせていました。
例えば、西郷と同郷で、後に大阪商工会議所の初代会頭となる五代友厚という人物がいます。彼は大阪商業界発展のために、私財を投入して新事業に次々と挑戦しましたが、西郷は彼を「利で動く人間」と非難しています。
また、自分を取り立ててくれた藩主・島津斉彬のことは「お天道様のような人」と敬っていましたが、次代藩主の忠義の父であり、藩政をとりしきった島津久光に対しては、斉彬より器量が劣ると見て蔑視していました。
久光は後年、西郷から「地ゴロ(田舎者)」と罵られたと側近に対して述懐しています。この発言は他の史料では確認できないものの、久光が西郷と折り合いが悪かったのは事実です。
このように主君に対しても悪感情を隠さない西郷を、大久保利通は「激情家」と評しています。