龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)は、戦国時代の九州を生きた戦国大名です。無名の生まれでありながら、九州で3本の指に入る巨大勢力を築いています。
彼は大名として類稀なる才能を持ち合わせていましたが、人望に恵まれることがなく壮絶な人生を送りました。
前編となる今回は、龍造寺隆信の人格を形成した事件や裏切りなど、波乱に満ちた少年期〜当主までを紹介ます。
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天才の幼少期
1529年、肥前国(現在の佐賀県と長崎県)で誕生したのが「龍造寺隆信」です。彼が産まれた家は、北部九州地方の御家人(守護大名)を務めた「少弐氏」に仕える龍造寺家の分家でした。
隆信は7歳の時に出家し、寺の僧侶として働くようになります。寺で才能を磨いた隆信は、大人顔負けの知識量や筋力で他者を圧倒。住職も隆信の才能に驚き、大物になることを直感したほどだといいます。
一族滅亡の危機!謀略事件と家督相続
隆信の出家から9年後の1545年に事件が起きます。主君の少弐氏に謀反を疑われ、隆信の父と祖父が殺害されたのです。これは龍造寺家に恨みを持つ「馬場頼周」の謀略でした。
この謀略により、一族の大半を亡った龍造寺家は滅亡の危機にまで陥ります。
出家していた隆信は、曾祖父・家兼に連れられて筑後国(現在の福岡県南部)へと亡命。
その後、周囲の協力を得た家兼は馬場頼周を討って、龍造寺家の再興に尽力しました。
しかし、まもなくして家兼は病に犯され、享年93歳でこの世を去ります。
家兼の遺言に従い隆信は僧侶を辞職(還俗)して、龍造寺分家の家督を相続。翌年には龍造寺本家の家督も相続しました。