九州説vs畿内説
『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国については長らく議論が交わされ続けており、学界はもちろんアマチュア考古学者や古代史ファンに至るまで、多くの人々の好奇心をとらえ続けています。
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邪馬台国に関する大きな論点はふたつあります。ひとつは邪馬台国の場所について、もうひとつは邪馬台国イコール後年のヤマト政権なのか、です。
前者については、奈良県や北九州、南九州などに「やまと」という古くから伝承されている地名が残っていることなどを根拠に、「邪馬台」から連なる地名なのではないかという解釈が有力です。
いわゆる畿内説との関連で言えば、奈良県桜井市にある纒向遺跡の発掘調査(2009年)で、かなり整然と配置されている大型建造物の跡も発見されており、「これこそが邪馬台国ではないか」と注目を浴びるようになりました。
さらには同県同市の箸墓古墳の年代がほぼ3世紀に該当することもわかっています。
これだけでは、ただちに邪馬台国が畿内にあったとは断言しにくいですが、3世紀前半には、近畿から北九州に及ぶ広域の連合政権が成立したという考え方が有力です。
これが、後に成立するヤマト政権に連続している、ということですね。
一方、九州説で考えた場合、邪馬台国とその傘下の小国連合は九州北部の小規模なものになるでしょう。
この場合はヤマト政権との連続性はなく、後にヤマト政権が邪馬台国を吸収・合併したか、あるいは邪馬台国が東に移動してヤマト政権を形成したのではないかと考えられます。
3ページ目 あまり意味のない「邪馬台国がどこにあったか」議論