平安時代、娘たちを次々と入内させ、権力の絶頂を極めた藤原道長。そんな道長は正室と側室、妾との間に七男六女を授かりました。
今回は道長の末娘・藤原嬉子(きし/よしこ)を紹介。果たして彼女はどんな生涯をたどったのでしょうか。
19歳の若さで世を去る
藤原嬉子は寛弘4年(1007年)1月5日、道長と正室・源倫子の間に誕生しました。
同母姉兄には藤原彰子(しょうし/あきこ)・藤原妍子(けんし/きよこ)・藤原威子(いし/たけこ)・藤原頼通(よりみち)・藤原教通(のりみち)がいます。
寛仁2年(1018年)に12歳で尚侍(ないしのかみ)に任じられました。
尚侍とは天皇陛下の身辺をお世話する内侍所(ないしどころ)の長官(かみ)です。
とても12歳の少女に務まる職務ではありませんが、現場には実務を担当する女官がいるので問題ありません。
翌寛仁3年(1019年)に裳着(もぎ)をすませて成人した嬉子は、従三位に叙せられます。
やがて15歳となった嬉子は寛仁5年(1021年)に長兄・頼通の養女となり、皇太弟の敦良親王(あつながしんのう)へ入内しました。
道長が自分の娘としてではなく、わざわざ頼通の養女としたのはなぜでしょうか。
世代を繰り下げることによって、頼通の代になっても「自分の娘を入内させた」外戚としての地位を確保させておきたかったものと考えられます。
敦良親王は後に皇位を継承し、後朱雀天皇(ごすざくてんのう。第69代)と呼ばれました。
そして入内から4年後の万寿2年(1025年)8月3日、嬉子は待望の皇子を出産します。
皇子は親仁親王(ちかひとしんのう)と名づけられ、やがて皇位を継承して後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう。第70代)と呼ばれるのでした。
しかし出産からわずか2日後に病のため薨去。死因は赤斑瘡(あかもがさ。現代の麻疹)ということです。
待望の皇子が生まれ、人生これからというところだったのに、19歳という若さで世を去ってしまったのでした。