紫式部と夫・藤原宣孝の間に訪れる悲劇…。悲しみを乗り越えあの世界的古典が生み出される【前編】

歴史 好き太郎

夫の出世と出産

大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部ですが、彼女の結婚には悲劇が待っていました。

紫式部、結婚に踏み切る!ふられてもラブレターを送り続けた藤原宣孝の一途さ…「光る君へ」でどう描かれる?

藤原宣孝と紫式部の縁大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部ですが、彼女の夫となる藤原宣孝は、藤原北家・良門を共通の祖とする又従兄弟の関係にありました。[caption id="atta…

紫式部、ホームシックから結婚を決意。都から離れての雪国暮らしの中で詠まれた数々の歌「光る君へ」

父・為時の任官大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部ですが、彼女は生涯で一度だけ「田舎暮らし」を体験しています。それは、父の為時が、越前守として任官した時のことです。[…

まずは結婚直後のエピソードから見ていきましょう。

結婚から数カ月後、夫の藤原宣孝は、衛門府の役人である右衛門佐(うえもんごんのすけ))という官職に加えて、山城守(やましろのかみ)に任ぜられました。出世したのです。

山城守となった宣孝は、時の最高権力者である藤原道長との接点を持つようになりました。

式部との結婚の翌年、長保元 (999)年の11月には、道長の娘である彰子が一条天皇の女御となりました。その際、宣孝は祝いの席の警護を担当しています。

続いて同年、豊前国の宇佐神宮(大分県宇佐市)への奉幣使(使者)も任ぜられ、道長から直々に指図を受けて一条天皇に拝謁。それから豊前に向かい、翌年2月に帰京しました。

紫式部が長女・賢子を出産したのは、宣孝が帰ってきたこの年、長保2 (1000)年だったと考えられています。

ところが、幸せな日々は長続きしませんでした。このあたりから宣孝と式部の関係はぎくしゃくしてきます。

3ページ目 冷える夫婦仲

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