2024年の大河ドラマ『光る君へ』は、毎回放送後にSNSで話題になるなど、大きな反響を呼んでいます。そんな大河ドラマに影響を受け、平安時代に興味を持つようになった、という方も多いのではないでしょうか?
大河ドラマでも重要な役割を果たしている「藤原道長(演:柄本佑)」ですが、彼と彼の息子である藤原頼道の時代は、藤原氏がもっとも栄華を極めた時期とも言えます。
しかし、いきなり権力を持ったわけではありません。藤原氏の力が強くなっていく過程には、彼らによる他氏排斥事件が起きていました。
そこで、今回の記事では、そんな他氏排斥事件のひとつである「承和の変(じょうわのへん)」を取り上げてみたいと思います。
承和の変が起きた背景は?
承和の変が起きた背景としては、当時、次の皇太子の座に誰がつくのかをめぐって対立が起きていたことが挙げられます。
823年(弘仁14年)、時の天皇であった嵯峨天皇は譲位し、彼の異母弟が淳和天皇(じゅんなてんのう)として即位します。続いて、833年(天長10年)になると、淳和天皇が譲位し、先代の嵯峨天皇の子どもが仁明天皇(にんみょうてんのう)として即位します。
ここで、淳和天皇の子ども(恒貞親王)は、次の天皇になる皇太子に決まりました。わかりにくいですが、淳和天皇は先代天皇であり異母兄でもある嵯峨天皇の嫡出子に譲位している点がポイントです。
これは、嵯峨天皇と淳和天皇の間で、それぞれの家から交互に天皇を出すという約束があったためです。
このような複雑な継承によって、恒貞親王は強い後ろ盾を得られない状況にいました。
恒貞親王は、藤原良房の台頭に危機感を覚える
このとき、藤原良房という人物がいました。
彼は、嵯峨天皇から信頼を得ており、力をつけていました。藤原良房の妹(順子)は仁明天皇の妃となり、道康親王(文徳天皇)を産みます。これにより、藤原良房にとってさらに良い環境が整います。
仁明天皇と良房は、道康親王の皇位継承を望みました。道康親王を皇太子にする動きがあることを察した恒貞親王は、争いを避けるために何度か皇太子辞退を申し出ますが、その都度、嵯峨上皇に保留にされていました。