戦国時代には竹中半兵衛が「今孔明」と呼ばれていたり、黒田官兵衛が「今世の張良」と呼ばれていたりと先人の名前を用いたユニークな異名で一部の武将を呼んでいました。
その中には驚くことに、ギリシア神話の英雄になぞらえた異名を持った武将がいました。
その人物は柴田礼能(れいのう)。宣教師から「豊後のヘラクレス」と呼ばれていましたが、どのような活躍をしたか知らない方が多いのではないでしょうか。
そこで今回は、柴田礼能が豊後のヘラクレスと呼ばれる由縁となった活躍とその生涯を追っていきます。
耳川の戦い以後に活躍
礼能のいる豊後柴田氏は豊後国(現在の大分県)大野郡に居着いた国人で、元来大友氏に仕えていました。
また、豊後柴田氏は橘氏を本性とする橘姓柴田氏であり、織田信長に仕えた柴田勝家の清和源氏の斯波氏を源流とする柴田氏とは血縁関係がありません。
そのような経緯を持つ礼能は、天正6年(1578)の耳川の戦い以後に大友宗麟から重用されていきました。
翌年には、宗麟に田原家を乗っ取る計画を知った大友氏の家臣・田原親貫(たばる-ちかつら)による反乱が勃発。礼能はこの反乱で宗麟の次男・大友親家の軍に従軍し、親貫率いる田原軍が守っていた安岐城の攻略に貢献しました。
また、反乱鎮圧後は大友親家が田原氏を継いだことで、礼能は親家を補佐する役目を担います。
その際に、田原氏旧臣を味方に引き入れる交渉を行い、さらなる貢献を果たしました。