皇族にして朝敵!幕末期、最後まで幕府側に「義」を貫いた北白川宮能久親王の波乱の人生

歴史 好き太郎

薩長側についた朝廷

幕末期、徳川幕府は雄藩を抑えてその権力・権威を取り戻す必要に迫られました。外圧にさらされ、さらに第二次長州征伐に失敗したあたりでは、このあたりの必要性は切実なものだったと言えるでしょう。

やはり有能だった将軍・徳川慶喜!第二次長州征伐が失敗しても江戸幕府が権威失墜を免れた理由

第二次長州征伐とは幕末期に行われた第二次長州征伐は、1866年(慶応2年)に江戸幕府と、討幕運動の拠点でもあった長州藩との間で起きた戦いです。第二次なら当然「第一次」もあるだろうと思われる…

そのために必要なのは、幕府と朝廷・天皇がしっかり結びつくことでした。そのため、幕府は公武合体政策を推し進めています。

しかし歴史の結果を見ると、朝廷の公家たちが最後に支持したのは尊王攘夷を掲げる薩長でした。

公家たちは、全員が全員、最初から薩長に賛同していたわけではありません。確かに薩長は天皇と中心とした政治体制の確立を目指していましたが、中には懐疑的な人もいました。

しかしそうした人たちも、三条実美岩倉具視などの説得と雄藩の圧力によって引き込まれていきます。

実際には「天皇中心の政治体制」というのは建前で、あくまでも薩長(土肥)が目指したのは天皇の権威を利用した中央集権体制を構築することでした。

こういった経緯があるため、あたかも当時の公家や皇族たちは、全員が討幕に向けて一致団結したと思われがちです。しかし、そうではありませんでした。

4ページ目 輪王寺宮・北白川宮能久

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了