1854(安政元)年、ロシアのエフィム・ワシリエヴィチ・プチャーチンが、日本に開国と通商を求めて、「ディアナ号」で来日しました。このときのディアナ号といえば、3本マスト、2,000トン、52門の大砲と488名のスタッフを乗せた、当時ロシアの最新鋭戦艦でした。
プチャーチンは、はじめ箱館に、次いで大阪に、さらに下田まで船を寄せ、幕府方代表の筒井政憲等と粘り強い交渉を進めてました。
ところが、11月に起きた関東・東海大地震による津波で、ディアナ号が大破してします。さらに、修理のため下田港から戸田港に向かう途中強い西風に煽られ、宮島村(現在の富士市)沖で、とうとう沈没してしまいました。その際、地元住民が自らの命を顧みず必死で、漂着した乗組員を救助した話が、現在も当地では語り継がれています。
祖国へ帰るための船を失ったプチャーチンは悲嘆にくれますが、帰国用の船を日本で作る決心をします。日本側もこれに協力。伊豆韮山代官の江川太郎左衛門(西洋流砲術を導入した人物として著名です)という人物がプロジェクトの責任者となり、ロシアの造船技師と綿密な打ち合わせが始まります。
まさに幕府を巻き込んだ一大プロジェクトでした。幕府側の責任者は、後に江川から、川路聖謨に引き継がれましたが、計画はとん挫することなく、進められました。
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これまで幕府の禁令により、近海用の小型船しか作れなかった中で、大海に乗り出す大型船を作ることになったのです。