日本初の従軍記者はマルチ・プレイヤー。実業家としても活躍した岸田吟香(ぎんこう)とは【後編】

湯本泰隆

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日本初の従軍記者はマルチ・プレイヤー。実業家、教育者としても活躍した岸田吟香(ぎんこう)とは【前編】

1868(明治元)年、『横浜新報もしほ草』という名前の新聞が発行されました。発行人は、アメリカ人の E.バン・リードと岸田吟香(ぎんこう)という2人の人物。70年3月まで 42編を発行した木版印刷の小…

銀座で店を出した吟香でしたが、これまた大盛況。なんと、3年後には中国に渡り、既に、精錡水の取次所を設置していた上海で、本格的な支店を出すまでに至りました。

時代はちょうど日清戦争の発生前後のこと。商業面で成功を収める傍ら、岸田は日中間の将来を考え始めたのでしょうか。

当時、中国各地に販路を拡大していた楽善堂には、ゆめを抱いて大陸に渡って来る多くの若者が集まっており、岸田は、そういった若者らの活動を支援しました。このとき支援した人物のなかには、後に日清貿易研究所や東亜同文書院の設立の中心的な役割を果たすようになる荒尾精などがいます。

1876(明治9)年には、「東京日日新聞」で、新聞史上初めての2ページ見開き広告掲載。日本で初めての清涼飲料水を「レモン水」として売り出しました。吟香が考案したキャッチフレーズ「清涼甘美」は、今も広告史に残る名コピーとなっています。

「レモン水」は、後にレモネードとして知られるようになります。

3ページ目 子宝に恵まれ、7男5女をもうける

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