山岳信仰や修行、狩りの為だった「登山」を国民的スポーツにした男・高頭仁兵衛【その1】

湯本泰隆

かつて日本で、「山登り」といえば、山岳信仰・修行などの宗教的な理由や、狩りなどをして生計を立てるため、いわば生きる上で必要なものでした。

一方、近代になると、「山登り」にレジャーやスポーツの価値を見出し、一般的の人々に、登山の楽しさ・素晴らしさを普及した人がいました。そのうちの一人が、今回紹介する高頭仁兵衛(たかとうにへい)です。

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高頭仁兵衛は、1877(明治十)年、新潟県長岡市深沢町(三島郡深沢村五十九番戸)の豪農の家に生まれました。幼名を「式太郎(しょくたろう)」といいます。江戸時代から高頭家の当主は、代々「仁兵衛」と名乗っていました。

元々は、学究肌の家系で、当時新潟県内で貴族院議員の互選資格を持つ15人中の1人であった祖父から、幼少時から儒学や仏教といった学問を学び、多芸多種であった祖母からは、茶道や礼法・漢文・漢詩・俳句・和歌・謡曲を習得しました。

深沢小学校、片貝高等小学校などを経て、二松学舎に学ぶかたわら、皇典講習所で国学、漢学などを学ぶ一方、文学書を好み、伝記や物語、講談なども乱読していたそうです。

生来虚弱な体質でしたが、塙保己一の伝記を読んだことから、学校までの12キロの距離を徒歩で往復し、健康を取り戻しました。

3ページ目 花火製造中に誤って右手と両目を負傷

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