上杉征伐のために会津へ向かった徳川家康は、大坂城にいる側室たちを警護する命令を自身の家臣・佐野綱正(さの-つなまさ)に言い渡しました。
しかし、綱正は伏見城に入り、その命令を放棄してしまいました。
大事な命令をないがしろにした綱正は果たしてどのような処罰をうけたのでしょうか。今回は主君の命を果たさなかった佐野綱正がたどった末路を紹介します。
大坂城西の丸の留守居役を務める
綱正たち佐野氏は河内国誉田村(現在の大阪府羽曳野市)の土豪で、最初三好康長に仕えていました。
康長の後は、康長の養子だった豊臣秀次に士官。小田原征伐で功績を挙げ、豊臣秀吉から恩賞を受けました。
ここからわかるように、恩賞を受けるに値するほどの武勇を持ち合わせていたことがわかります。
そして、秀次死後には徳川家康に仕えました。秀吉死後に家康が大坂城西の丸に移ると、綱正は西の丸の留守居役を務めたことで近江国野洲郡と上総国の併せて3000石の領地を貰い受けました。
側室警護よりも伏見城へ
慶長5年(1600)、家康が上杉征伐のために会津へ向かうと、綱正は大坂城西の丸の留守居と家康の側室たち(阿茶局・お梶の方(英勝院)・お万の方(養珠院)の警護を任されます。
しかし、石田三成たち率いる西軍が挙兵すると、西の丸引き渡しを条件に大坂城を退去。八幡に場所を移しました。
そして、側室たちを知人に預けた綱正は兵を率い、戦いが始まる前の7月17日に伏見城に入場します。
伏見城の戦いで綱正は大砲を放ちながら、二の丸の守備にあたりました。しかし、西軍の猛攻に防ぎきれず、奮戦するも7月29日に討ち死にしました。