関ヶ原の戦いでは、西軍に与した大名たちは戦いに加わったか否かの関係なしに改易や減封といった何かしらの処罰を受けました。
しかし、中には西軍にもかかわらず、加増された大名たちが何人かいました。
彼らは関ヶ原の戦いの最中にどのような働きを見せたのでしょうか。今回は加増を受けた2人の西軍の大名がどんな働きを見せたのか紹介します。
豊臣と徳川のパイプ役となった片桐且元
最初に紹介する人物は、片桐且元(かたぎり-かつもと)です。
且元は浅井長政の家臣でしたが、浅井氏滅亡の後に豊臣秀吉に仕えます。その後は秀吉の家臣として、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで一番槍の功績により「賤ヶ岳の七本槍」に数えられるほどの活躍をしました。
また、大坂の陣の発端となった方広寺を建築した人物としても知られています。
慶長3年(1598)には豊臣秀頼の補佐役の1人に選ばれ、直接意見を言える重要な立場を与えられました。それほど且元が豊臣政権に必要な存在だったことがうかがえます。
慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いでは西軍に与し、大津城の戦いで家臣を派遣しました。西軍敗北後は、長女を人質として徳川家康に差し出し、豊臣と徳川両家の調整に奔走。
その功績により、それまで有していた1万石から1万8000石の加増を受け、2万8000石を有するまでに至りました。
また、同年には且元と同じく秀頼の補佐役の1人である小出秀政と共に豊臣家の家老に抜擢されます。
以後、且元は江戸幕府の政治を秀頼の代わりに協力と承認する立場となり、大坂総奉行と呼ばれました。
慶長9年(1604)に秀政が亡くなると唯一の家老となり、豊臣家の外交と財政を一手に担いました。
そのため、淀君から「秀頼の親代わりになってほしい」との手紙が残されているくらい信頼されていたことがわかります。