ちょっと待って!江戸時代「安政の大獄」は本当に大弾圧だったのか?井伊直弼の本当の目的と後世の誤解

「安政の大獄」の真の目的

皆さんは、幕末期に行われた「安政の大獄」と言えばどのようなイメージを持っているでしょうか。多くの人は、当時の幕府の家老だった井伊直弼(いいなおすけ)が、その権限を利用して尊王攘夷派だった藩士や公家・大名までをも処罰した大弾圧事件だと考えるのではないでしょうか。

しかしこの安政の大獄も、実は実態がよく分からないところがあったり、井伊の目的が間違った形で後世に伝えられたりしたところがあり、上記のようなイメージはだいぶ誤解も混ざっているといえるでしょう。

この、井伊によって行われた安政の大獄の本当の目的は、当時の朝廷をけん制することと、将軍の後継者争いに勝利するためだったのです。

どういう意味なのか、詳しく解説します。

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二度目のペリー来航時の徳川幕府の将軍は徳川家定でしたが、彼は病弱で嫡男がいませんでした。よって家定が生きている間に次期将軍を決めておかなければなりません。

そこで候補に挙がったのが、井伊直弼が推薦する紀州徳川家の慶福島津斉彬の推薦する一橋家の慶喜でした。この時の後継争いでは、慶福派が一応の勝利を収めています。

しかし、その後も一橋派には巻き返しを狙う者が大勢おり、慶福を推薦した井伊直弼は気が気ではありませんでした。

そんな中で、孝明天皇は、幕府が天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結したことについて、責任を追及しようとします。さらに外国人を追い払う「攘夷」を求める、いわゆる「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を複数の藩に送り付け、政治的な影響力を強めていきました。

井伊直弼自身も日米修好通商条約の締結についてはかなり慎重な姿勢で臨んでいたのですが、孝明天皇の暴走によって幕府はメンツを潰された形になります。

この時、井伊は幕府内の敵対勢力と、それから朝廷と争っていたことになります。こうした状況を打破するために行われたのが、後に安政の大獄と呼ばれるようになる一斉処分だったのです。

つまり井伊の意図は「日米修好通商条約の反対派の弾圧」ではありませんでした。

3ページ目 「大獄」の実態は?

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