兄・豊臣秀吉を裏で支えた異父弟の豊臣秀長。温厚な性格で尚且つ兄の欠点を補っていたと知られており、秀長が長生きしていたら豊臣の天下は長続きしていたと言われています。
まさに縁の下の力持ちと言っても過言ではない秀長ですが、どのような人物だったのか詳しく知らない方もいるのではないでしょうか。
そこで今回は秀長を代表とする功績やエピソードから、秀長の人柄をご紹介いたします。
武士になろうとは思っていなかった
秀長は天文9年(1540)に生まれます。異父兄に秀吉がいますが、幼少期に秀吉が家出をしたため、面識がありませんでした。
2人が再度出会うことになるのは、永禄4年(1561)に秀吉とお寧(北政所)が結婚した頃。この時に秀吉から家来になるよう誘われていますが、秀長自身は農業に精を出す生活に満足しており、一度断りました。
また、この時の秀長の夢は村年寄りだったようです。それでも秀長を欲した秀吉は説得し、秀長も武士の道を歩むことを決めました。
藤堂高虎から慕われた
藤堂高虎は7回主君を変えたことで有名な武将です。
主家の滅亡で仕方なく主君を変えたこともありますが、徳川家康の次に長く仕えたのは秀長でした。
高虎は天正4年(1576)頃から300石で秀長に士官。そして、三木合戦や賤ヶ岳の戦い、紀州征伐といった数々の戦いで功績を残し、秀長はそれに応える形で1万7300石を加増しました。
さらには高虎を聚楽第内に家康の屋敷を建築する役目に任命し、重宝していたことがわかります。
温厚な秀長と武功で報いる忠義者・高虎という2人の相性は非常に良かったのか、高虎は秀長が亡くなる天正19年(1591)までの約15年間仕えました。
秀長死後は秀長の養子・秀保に仕官。その秀保が文禄4年(1595)に亡くなり、秀長の家系が断絶すると出家しました。
高虎の才能を惜しんだ秀吉から説得により還俗しますが、秀長たちの死を悼んで出家したことがうかがえます。
高虎にとって秀長は、自身の才能を上手に引き出し、開花させた恩人だったのかもしれません。