親しい者を殺されたら、その仇を憎むのは人としてごく自然な感情だと思います。
いざ仇を前にすれば、積年の怨みを晴らすべく、少しでも惨たらしく殺してやりたい気持ちは解らなくもありません。
しかし中にはそうした私怨を抑えて、天下公益に則した振る舞いをする者もいました。
今回はそんな一人・鳥居成次(とりい なりつぐ)のエピソードを紹介したいと思います。
伏見城で父を討った石田三成の身柄を預かる
鳥居成次は元亀元年(1570年)、鳥居元忠と正室・松平家広女の三男として誕生しました。
鳥居家は代々松平家(徳川家)に仕えた譜代の家臣、鳥居元忠は主君・徳川家康の人質時代から付き従った忠臣です。
通称は久五郎(きゅうごろう)、後に従五位下・土佐守と叙せられました。
時は慶長5年(1600年)9月、天下分け目の関ヶ原合戦では家康の下で奮戦して首級を上げたものの、伏見城を守備していた父・元忠は討死してしまいます。
さて、勝利の後に敵の総大将である石田三成(治部)が捕らわれました。さて、処分が決まるまでの間、誰に身柄を預けようか……そうだ。
白羽の矢が立ったのは鳥居成次。久五郎は父を殺されているし、怨みを晴らしたいに違いなかろう。家康はさっそく三成を預けたのでした。
「久五郎よ。そなたに石田治部の身柄を預ける。殺しさえしなければ、何をしてもよいからな」
「御意」