わずか10日で執権を辞職!時代に翻弄された鎌倉幕府15代執権・北条貞顕とは?

雲川ゆず

2022年は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で一気に鎌倉時代や北条氏などに注目が集まった年でもありました。ドラマでは鎌倉時代の初期の動乱が描かれましたが、鎌倉時代の末期もさまざまな時代のうねりがありました。

そんな時代に翻弄されたのが、鎌倉幕府15代執権である北条貞顕(ほうじょうさだあき)です。

普段はなかなか焦点の当てられることのない人物ですが、実は文化面で功績を残しています。今回の記事では、そんな北条貞顕について詳しくご紹介していきたいと思います。

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北条貞顕の生まれと幼少期

北条貞顕は、1278年(弘安元年)、金沢北条氏の「北条顕時(ほうじょうあきとき)」と摂津国の御家人であった「遠藤為俊」の娘「入殿」とのあいだに生まれました。なお、金沢北条氏は、北条義時の6男(実泰)を祖とする一派です。

実泰の子である実時(北条貞顕の祖父にあたります)が北条泰時のもとで実力を発揮し、その後もこの庶流はさまざまな要職につきました。なお、実時は日本最古の武家の文庫といわれる「金沢文庫」を設けたことで有名です。

北条貞顕が幼い頃、「霜月(しもつき)騒動」と「平禅門の乱(へいぜんもんのらん)」という2つの政変が発生します。ちなみに、「霜月騒動」によって彼の父が失脚したため、幕府に出仕するのが遅れたと言われています。

低い位からのスタート

北条貞顕は彼が17歳のときに初出仕したと言われています。しかし、官職は低いところからスタート。次第に彼のスキルが認められ、1302年(正安4年)に六波羅探題南方(鎌倉幕府が京都に設置した出先機関)に就任します。

これは、金沢市としては初めての就任でした。その後一度鎌倉に戻りますが、1309年(延慶2年)には、六波羅探題北方(きたかた)としてまた京都に戻ってきます。

なお、京都にいたときに公家や僧侶とともに書写活動をしていたと言われています。

3ページ目 執権になるも、わずか10日で辞任

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