立派な家系に生まれ、自分自身も才能に溢れていたのに、最後は残念な結末を迎える……。今でもありそうなお話ですが、江戸時代前期の大名にも、そのような人物がいました。
その名も、「松平忠直(まつだいらただなお)」。暴君と呼ばれることもある彼ですが、どのような生涯を送ったのでしょうか?
徳川家康の次男の息子として生まれる
まず、松平忠直の生まれは立派です。徳川家康の次男である結城秀康の長子として、1595年(文禄4年)に誕生しました。
1606年に元服、1607年には父が亡くなり、13歳という若さで越前75万石を相続します。さらに、1611年には徳川秀忠の娘である勝姫(かつひめ)を正室に迎え、順調な人生を送っていきます。
家臣たちを統率できずお家騒動が起きる
松平忠直が君主となった越前松平家では、家臣たちの主導権争いが起きていました。忠直はそれを上手く収めることができず、1612年には「越前騒動」と呼ばれるお家騒動が起きてしまいます。
このことで忠直の評価は落ち、結果として国政は本田富正(ほんだとみまさ)という譜代の老臣がリードすることに。
大阪夏の陣で活躍するも、恩賞の少なさに不満を抱く
松平忠直は生来、武勇に優れ、さらに度胸もあったと言われています。実際に、1615年の大阪夏の陣では真田軍を攻めることを命じられ、真田信繁を打ち取るなど、大きな功績をあげました。
しかし、官位こそ上がりましたが、領地が増えることはなく、忠直はそのことに不満を募らせました。