『どうする家康』において信玄の後継として徳川家康と対峙した武田勝頼(たけだかつより)。設楽原の戦いでは決死の突撃を選び、勝ち目のない戦いには撤退を選ぶ父・信玄の対比ともいえるシーンと言っても過言ではないかと思います。
優秀な父を持つと自然と2世は比較されてしまいがちで、意外にも「勝頼は暗愚だった」との評価が残っています。果たして、勝頼がこのような評価を受けた原因は何だったのでしょうか。
そこで今回は、勝頼が暗愚という評価を受けた原因と、勝頼が残した功績を同時にご紹介します。
勝頼が暗愚と評価された理由
勝頼が暗愚として評価されたのは江戸時代が始まりです。この当時は家を守ることが重要視され、それと反対のことをした場合は愚かな行いとして見られていました。
そのため、「勝頼は武田家を滅ぼした暗愚の武将」として評価が確立されてしまいました。しかし、近年では勝頼を見る目が変わってきており、再評価され始めています。