窮乏する薩摩藩
国の借金といえば国債を思い浮かべる人が多いと思いますが、国政を預かる側が借金を抱えるのは今に始まった話ではありません。実は、江戸時代には薩摩藩が500万両(現在で一兆円ほどの価値)もの借金を抱えています。
なぜ薩摩藩はこれほどの金額の借金を必要としたのでしょうか。そして、これは返済できたのでしょうか。
まず、この借金は、主に三つの要因によって発生しました。一つ目は、幕府から賦課された国役事業への負担です。特に木曽三川の治水工事は宝暦9年(1759年)から天明8年(1788年)まで30年近く続き、薩摩藩は累計で約10万両もの出費を強いられました。
二つ目は自然災害や火災による被害です。薩摩藩では安永8年(1779年)に桜島が噴火しました。また火災で江戸や鹿児島の藩邸が焼失するなどの損失があったため、それらの復興のためにお金が必要だったのです。
三つ目は、参勤交代制度による出費です。特に遠隔地にある薩摩藩は江戸と鹿児島を往復するだけでも多額の旅費がかかったといわれています。
実際には、財政難に陥ったのは薩摩藩だけではありませんでした。そもそも初期の徳川幕府は、戦国時代のような乱世に陥ることを防ぐために「大名たちの力を削ぐ」ことに力を注いでいます。何かと理由をつけて各藩の財政出動を促したのは、半ば意図的だったとも言えるのです。