織田信長に追放された佐久間信盛(立川談春)の悲劇的な最期【どうする家康】

NHK大河ドラマ「どうする家康」第25回放送「はるかに遠い夢」で、織田信長(演:岡田准一)によって追放されてしまった佐久間信盛(演:立川談春)。

劇中では築山殿事件(天正7・1579年)の直後、恐らく同年内のこととして描かれています。

しかし文献によれば佐久間信盛の追放は翌年の天正8年(1580年)、理由もまた別のものでした(少なくとも信長の八つ当たりではありません)。

果たして信盛はどんな理由で追放されたのか、その後どうなったのか、紹介したいと思います。

石山本願寺攻めの「職務怠慢」

……同八月信長公大坂於進発城中ヲ見給其後以一書ヲ佐久間信盛父子遣テ曰多年兵を曝シ衆ヲ労シテ功ヲナスコトナシ急天王寺ヲ可出汝ヲカヤウニ被仰付御運已スヘニナルカトノ仰也信盛信勝不及陳謝熊野ニ籠居ス世云信長公十六歳ノ御時ヨリ信盛先陣ヲ勤近年ハ信勝大坂ヲ雖守強敵ニ向給フ時ハ信盛有先鋒信長臣下ノ功ヲソ子ミ給フコトアリ屡上諫言国持ニナランハマツ信盛ナルニ此大坂ノ押ハ不足ニテ心中イサマス時イカナルサンケンモ有ケルヤ数年ノ忠功ヲステヽ口惜次第ナリト云々保田久右衛門安政ハエツ タカ カ城ヲ退紀州根来ニ引籠

※『佐久間軍記』「大坂門跡和睦」

【意訳】天正8年(1580年)8月、信長は佐久間信盛父子に折檻状(糾弾文書)を送った。曰く「長年大軍を率いておきながら武功をまるで立てていない。そもそもお前は……中略……とっとと出て行け」とのこと。信盛と佐久間信勝(のぶかつ。信盛の子)は陳謝もできず、紀伊国熊野へと出奔した。

思えば信盛は信長が16歳の時から先陣を務めていたが、やがて後輩たちが台頭するようになると、これを妬んだという。

「若輩どもが次々を国持ちとなって、気に入らん。まずは織田家筆頭家老たるわしこそが相応しかろうに……」

それが大坂で石山本願寺攻めなどさせられては、やる気が出ないのは無理からぬこと……などと腐っていたら、その様子を信長に讒訴する者があったらしい。

かくして信盛は永年の忠義と功績を捨てざるを得なかった。また次男の保田久右衛門安政(やすだ きゅうゑもんやすまさ)も、城を捨てて紀州根来に引き籠もったのである。

……それまで10年ほども戦い続けていた石山本願寺との和睦がなったタイミングで、信盛は追放されたのでした。

大軍を率いて石山本願寺を包囲しておきながら、積極的に攻勢もかけずダラダラと歳月を浪費した怠慢を責められてのことです。

柴田勝家(演:吉原光夫)や羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)、そして明智光秀(演:酒向芳)らは各方面で目覚しく活躍しているのに、筆頭家老の座にあぐらをかいているそなたは何様だと。

さぞ退屈だろうに、いったい何をしていたのかと言えば、連日茶会を開いていたとのこと。

実に優雅ですが、それで城が落ちないのでは本末転倒もいいところでしょう。

上掲文中には「国持ニナランハマツ信盛ナルニ此大坂ノ押ハ不足ニテ心中イサマス」つまり「もっと評価されるべきなのに、大坂(石山本願寺)攻めなんて役不足の任務を与えられてはやる気が出ないのも当然」などとぼやくのでした。

これは完全に驕っていますね。努力もせんで後進を妬むような輩は必要ない……という訳で、信長は30年来の筆頭家老を追放したということです。

3ページ目 温泉で事故死?佐久間信盛の末路

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