信玄の死を隠し通した!?武田信玄の影武者として知られる武田信廉を紹介【どうする家康】

拾丸

『どうする家康』18話「真・三方ヶ原合戦」にて、病気で動けなくなった武田信玄の代わりに信玄の影武者が登場しました。おそらく、徳川家康の影武者となった夏目広次と対比の目的で登場させたかと考えられますが、本当に信玄の影武者がいたのか気になった方もいるかと思います。

実際のところ、信玄の影武者はいました。気になるその人物は武田信廉(たけだ-のぶかど)、信玄の弟にあたる人物です。

今回は信廉の簡単な生い立ちと影武者として活躍した逸話を合わせて紹介します。

親族衆筆頭として

信廉は武田信虎の六男に当たり、天文20年には兄の信玄の命令で今川義元の娘・嶺松院(れいしょういん)を武田義信の正室に迎えることを義信に伝える取次役を担いました。

また、信玄と信繁の同母弟で、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いで信繁が討ち死にすると、親族衆筆頭を任されます。戦いの時は主に本陣守備や後方守備を任され、武田軍を裏で支える役割をしていました。

画家として知られた信廉

元亀4年(1573)信玄が病死した後、信廉は一族の重鎮として飯田城や大島城の城代として武田家を支えることになります。この頃には父の信虎が帰国を望んだため、居城の高遠城で引き取りました

引き取った理由として、信虎が信廉のことを可愛がっていたことや、可愛がられたことに対する感謝の意を示したことが要因となっているかもしません。

この時に描いた「武田信虎像」は重要文化財となっています。他にも、「武田信虎夫人像」や「渡唐天神像」の作品を残し、画家としても知られています

3ページ目 勝頼とはそりが合わず…

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