将軍・徳川家光の女装癖は本当だったのか?女装シーンが出てくる「若気の至り」の逸話とは

徳川家光の「女装癖」?

そういえば徳川家光のことをインターネットで調べてみると、「男色で女装癖があった」というのがよく出てきます。

家光の男色については事実のようですし、当時それは珍しいことではないので特筆するほどでもないのですが、「女装癖があった」というのは何をエビデンスとする話なのか、よく分からないことが多いです。

徳川家光が女装をしていたとうエピソードが全くないわけではありません。

ただ、それは当時の流行に乗っかったファッションをしていただけの話です。しかもそのエピソードは、若き日の家光が感情に任せて教育係をクビにしてしまったという、別の話の中のひとコマに過ぎません。

具体的にはどういうことなのか、解説します。

三人の教育係

徳川家康と、その息子であり徳川幕府の二代目将軍である秀忠は、「後継ぎがしっかりしていないと徳川家も滅びる」と考えました。彼らの念頭にあったのは、言うまでもなく豊臣家のことです。

そこで彼らは、家光に幼少期から英才教育を施すことに決め、まだ若干12歳だった家光に、三人の教育係をつけました。

まず一人目が、江戸幕府の老中・大老を勤めた酒井忠世で、彼は無口でどっしりとした重厚感のある人柄だったといいます。また二人目の土井利勝も同じく老中・大老を勤めた人物で、柔軟で優しい性格の譜代大名でした。

 

三人目が青山忠俊です。彼は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて生きた人物で、戦国時代の気風が残っている性格だっ若上たのか、人に対して厳しく進言する性格だったといいます。家康・秀忠に仕えた譜代大名でした。

後世に成立した、新井白石による『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、彼ら三人は家光が師事した「三臣師傅説」に数えられています。

ただ、この中で、優しくも厳しい人物だった青山忠俊は、その性格のため家光から改易されてしまうのです。

その原因こそが、家光が女装している姿を目撃してしまったことでした。

3ページ目 家光と忠俊の確執

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