「天下分け目の」戦いの実態
1600年、関ケ原の戦いに勝利したことで、徳川家康の天下人としての地位が決定的になったのは周知のとおりです。
この「天下分け目の」と評される関ヶ原の戦いですが、その歴史的な重要性のわりには、その実態をよく知らない人も多いでしょう。
実は、関ケ原の戦いはほんの数時間で終わっています。さらにこの戦いと連動して、全国各地でも徳川・豊臣両陣営の激突が発生しているのです。つまり「天下分け目の」戦いは同時多発的でもあったと言えるでしょう。
関ケ原に至るまで
まず関ヶ原の戦いを見ていきましょう。この戦闘は1600年9月15日に行われましたが、始まったのが当日の午前中で、昼過ぎの午後1時には終了したといわれています。
なぜ、このような重要な戦いがほんの数時間で完結してしまったのか、その理由は小早川秀秋の裏切りにありました。よくご存じの方も多いでしょうが、少しその経緯をたどっていきましょう。
1598年に豊臣秀吉が死去し、わずか5歳の遺児・秀頼が後を継ぎますが、そこでは五大老と五奉行が政権を運営する体制がとられました。徳川家康はこの時五大老の一人でしたが、次第に彼の独断専行が目立ち始め、他の大名たちとの間に軋轢が発生します。
決定的だったのが、1600年の家康と上杉景勝の対立でした。景勝が勝手に築城したことをとがめた家康が、上杉討伐のために挙兵したのです。
ところが、ここで秀吉恩顧の大名たちも家康に反旗を翻しました。