豊臣秀吉による「太閤検地」の歴史的意義は?荘園制度の解体から身分制度の確立まで【前編】

「検地」の意義

小学校の教科書で「豊臣秀吉は検地・刀狩りを行った」と、ざっくり教わったことを覚えている人も多いでしょう。

このうち、刀狩りは「武装解除」として考えるとすぐに理解できますが、一方の検地の方は、少し専門的な知識がないと、その意義が理解しにくいところがあります。

もともと戦国大名の財源といえば、領地の農民から納められる年貢が主でした。

そこで領主は自分の領地内に存在する農地について、それぞれの生産高と、年貢を納めるいわば「納税者」が誰なのかをきちんと把握しなければならず、それで行われたのが検地だったのです。

ところが、ひとつ大きな問題がありました。当時は各地の田畑が荘園制度の名残を引きずっており、権利関係が複雑化していたのです。

荘園制度は複雑怪奇

荘園制度というのはある種の脱税システムで、田畑の名義を貴族や寺社にすることで、実際にその土地を耕作している農民が課税を逃れるというものでした。

よって、耕作者と所有者が一致しないだけならともかく、その間に複数人の仲介者が存在していたりして、複雑怪奇な状態になっていたのです。

どれくらい複雑怪奇だったかというと、領主ですらその全貌把握が難しかったのです。よって、秀吉が行うよりも前の検地は単なる自己申告によるもので、虚偽の内容も多かったといわれています。

豊臣秀吉は農民の出なので、こうした状況をよく知っていました。そのため、国土をきちんと支配するためにも、正確な検地を行わなければならないことも分かっていたのです。

実際、彼は信長に仕えていたころから、領地を得るたびに検地をきちんと実施していました。

2ページ目 太閤検地のスタート

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