【前編】【中編】では、「徳川四天王」の一人で、一番の重臣といわれていた井伊直政と徳川家康との出会い。そして、戦国時代「男色・衆道は武士のたしなみ」ともいわれ、数々の名だたる武将が行っていた中、特別に興味を持たなかったといわれる徳川家康が、絶世の美少年の誉れ高い直政を一目で気に入り召し抱えたことなどをご紹介しました。
「男色」は武士のたしなみ!?徳川家康が寵愛した美少年・井伊直政との絆【前編】
「男色」は武士のたしなみ!?徳川家康が寵愛した美少年・井伊直政との絆【中編】
【後編】では、さらに家康の寵愛ぶりがわかるエピソードをご紹介しましょう。
負傷した直政に自ら薬を塗る
徳川家康が寵愛した井伊直政の初陣は、1576年(天正4年)2月の、武田勝頼との「芝原合戦」です。この戦いで、直政は家康の寝所まで入り込んだ武田の間諜数名を打ち取り、その手柄により3千石に加増されることとなりました。
その後、若くして直政は数々の戦いに参戦して功績を上げた直政。
1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」は、家康の信も厚い井伊直政が抜け駆けして戦いの火蓋を切ったといわれています。
そんな直政が、家康の四男・松平忠吉の初陣の後見としても出陣。乱戦の中で島津義弘の中央突破の際に銃撃され、2カ所を負傷したそうです。
負傷しつつも、戦の報告に家康の元に上がった際、家康は自分の実の息子を差し置いて直政の腕をとり、その鉄砲傷に薬を塗ったといいます。そのとき、息子の松平忠吉も負傷していたのですが、家康は忠吉には薬を塗らなかったということです。