前代未聞の征夷大将軍襲撃・暗殺事件!「永禄の変」はなぜ起こったか【前編】

畿内支配が果たされるも…

16世紀の日本が「乱世」すなわち戦国時代に突入していった原因として、室町幕府の将軍位の争奪戦の因縁が関係者の間で親から子、子から孫へと引き継がれて、争いが泥沼化していったことが挙げられます。

特に細川・足利両家の争いが凄まじかったのですが、これを制する結果になったのは両家のどちらにも属さない三好長慶でした。

とはいえ、これで将軍位をめぐる全ての争いが収束したわけではありません。そもそも、多くの人間が求めていたはずの将軍位そのものの権威が否定され、ドロドロした抗争だけが残る結果になります。

そうなる大きなきっかけとなったのが、永禄の変と呼ばれる将軍襲撃・暗殺事件です。

この事件の経緯を、前・後編に分けて追っていきます。

義輝の将軍就任

1546年に室町幕府の13代将軍となった足利義輝ですが、彼の就任はあまり平和裏に行われたとは言えませんでした。

父である義晴から将軍職を譲られた時はまだ11歳で、その就任式も京ではなく、亡命していた近江で行われたのです。義輝も義晴も、三好長慶との対立により京を追われていたのでした。

そんな状況下での将軍就任でしたが、後に義晴が逝去すると、義輝は京へ戻ることを狙って三好長慶と争います。しかしそのたびに敗北しては近江へ亡命することを繰り返し、ようやく長慶との和睦が成立したのは1558年のことでした。

3ページ目 「まとも」な将軍

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