毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【後編】

毛利VS尼子!

【前編】では、戦国時代の石見銀山が世界的にも大きな存在感を持っていたことや、その領有権を巡って大内氏と尼子氏が争ったことを説明しました。

毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【前編】

世界的視野で見る16世紀の石見銀山かの毛利元就は1562年から約20年間、島根県の石見銀山を領有しています。毛利氏がこの銀山を取得するまでには大内氏・尼子氏との熾烈な戦いがありました。[c…

さて、16世紀から石見を支配し、本格的に採掘をしていた大内氏ですが、大内義隆が没したところで石見銀山支配に乗り出してきたのが毛利元就です。

彼は陶晴賢に対して勝利を収めるなどして台頭していき、一時は石見銀山を奪取しました。しかし忍原・降露坂の戦いなど、尼子晴久との抗争では敗北し、今度は奪い取られます。

が、1561年1月、居城である月山富田城内で晴久が47歳で急逝し、尼子家内に動揺が走ったところを元就は見逃さずに石見へ侵攻。晴久の後継となった尼子義久は和睦を試みますが、元就は反対に「石見不干渉」を条件として和平を持ちかけたのです。

このことからも、いかに石見銀山の存在感が大きかったかが分かりますね。義久は泣く泣くこの条件を呑むことにしました。

2ページ目 毛利元就の財力を支えた「銀」

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