大坂の町が、近世都市としての様相を現すようになったのは1583年、豊臣秀吉が大坂城築城の普請を始めてからのことです。このとき、秀吉に仕えていた諸大名の屋敷もこぞって新築されました。
彼らが翻刻から輸送した米の貯蔵庫を大阪に設け、売買を行ったことで、大坂は商業が盛んな町として発展しました。
1615年、大坂夏の陣で党側家康が豊臣家を滅ぼすと、大坂は衰退してしまうかのように思われました。ところが江戸幕府は、江戸へ物資を大量に供給するとともに、年貢米を売りさばく市場を必要としていたため、戦後すぐに大坂の復興作業に乗り出しました。
こうして、1640年代には、西は木津川の沿岸、東は道頓堀沿岸にまで市街地を拡大させました。
このときの市街地の特徴は、京町堀や長堀といった巨大な運河を建設し、その得溶岩に町屋敷を開発したところにあります。これは、水運による物資の輸送を見据えてのことでした。
全国各地から大坂へ入港する廻船は安治川、木津川の下流一帯で小舟に物資を積み替え、川や運河を利用して大坂市中へ物資を運びます。逆に、大坂から諸国に物資が輸送される際は、この逆のルートになります。