桶狭間は「おけはざま山」?
【前編】では、1560年の桶狭間の戦いが起きた経緯と、今川義元の目的・兵力がはっきりせず謎のままであるという点を説明しました。
「桶狭間の戦い」はなぜ起きた?正確な場所はどこ?有名なのに実は不明点だらけ…【前編】
「桶狭間の戦い」おさらい戦国時代の有名な戦いに、1560年5月19日に起きた桶狭間の戦いがあります。この戦いは日本史上最大の逆転劇と呼ばれており、織田信長が今川義元を討ち取った有名なもので…
次に、桶狭間の戦いにおける謎として、そもそも桶狭間とはどこなのか? というのがあります。
従来の説は、織田信長は善照寺砦から太子ケ根を回って、桶狭間で今川義元と激突したというものでした。一方、最近は太子ケ根ではなく中島砦を迂回して手越川に沿うなどして行ったのではないか……とも言われています。
ところが「そもそも」の問題として、桶狭間とは一体どこなのかがはっきりしていません。
江戸時代初期に小瀬甫庵によって書かれた『信長記』では、そこは窪地である田楽狭間という場所だったと記されています。現在「桶狭間古戦場」を名乗る場所として、名古屋市にある田楽坪と明石市の田楽狭間の二つがあり、いずれもこの『信長記』の記録がもとになっているようです。
一方、信長の側近である太田牛一が記した『信長公記』では、今川義元との決戦の地となったのは「おけはざま山」という場所だったとされており、現在では『信長記』よりもこの『信長公記』の方が信憑性が高いと考えられています。
が、それではこの「おけはざま山」はどこの山なのかということになると、これも諸説ありはっきりしません。