8万vs8千の軍勢
【前編】では、1545年の今川義元による侵攻と歩調を合わせて、北条氏康が東西から挟み撃ちにされたところまでを見ていきました。
戦国時代「三大奇襲作戦」のひとつ河越夜戦!北条氏康の逆転劇とその後の伝説【前編】
氏康は今川の方と和睦しますが、次は東の河越城を奪還しなければなりません。これが、戦国時代の「三大奇襲作戦」と呼ばれる河越夜戦へとつながっていきます。
1545年10月に河越城を包囲した軍勢は約8万。関東管領である山内上杉氏(上杉憲政)、扇谷上杉氏(上杉朝定)に、古河公方である足利晴氏や、他にも関東の諸大名が加わって、このような大軍に膨れ上がっていたのです。
一方の氏康の軍勢は8千程度で、城兵と合わせても一万程度に過ぎませんでした。対する8万の軍勢は長期戦の構えを見せており、勝負にならないのは明らかです。
氏康は、そこで上杉軍と足利晴氏に、城の包囲を解くように書面で嘆願します。しかし、この腰の低い嘆願を疑った諸大名の連合軍は、攻撃をしかけました。
この時に氏康が取った戦法は撤退でした。まさか逃げるとは思ってもみなかった連合軍は、北条勢の弱腰ぶりを目の当たりにして完全に油断してしまいます。しかし、これが氏康の戦略でした。
奇襲によって大逆転
氏康の軍勢が動き出したのは、翌1546年4月20日の深夜です。氏康は、自分の部隊を四つに分割し、このうち三つの部隊に、連合軍の隙をつく形で奇襲させたのです。
予期しない攻撃に、混乱して潰走したのは扇谷上杉軍でした。ここで、同軍の大将だった上杉朝定は戦死したと言われています(病死とも言われています)。
この勢いに乗った北条軍は、さらに山内上杉氏を攻めて上杉憲政を撤退させます。これに加えて、河越城内の北条綱成も足利晴氏を攻撃し、敗走へと追い込んだのでした。
予想だにしない一連の攻撃によって、連合軍は慌てふためき大混乱に陥ります。この流れで二つの上杉氏も滅亡したり、急速に勢力を失ったりしていき、ここに北条氏による関東地方の支配が決定したのです。