武力蜂起ではない「一揆」
応仁の乱はさまざまな影響をもたらしましたが、そのうちのひとつが1485年に起きた山城国一揆(やましろくにいっき)です。これは、応仁の乱の後も続いていた紛争をやめさせようと、農民などが協力して行動を起こしたものです。
「一揆」と聞くと、農民による武力蜂起というイメージが浮かびがちですが、一揆の本当の意味は、ひとつの目標に向けて行動する共同体のことを指します。
一揆の中でも、惣村(力のある農民や地侍による自治体)が起こすものは土一揆、在地領主の国人が興すものは国一揆となります。
よって山城国一揆は国一揆に分類されるのですが、そこに惣村の人々も加わったことからかなり大規模なものとなり、惣国一揆とも呼ばれます。
なぜこんな大規模な一揆が起きたかというと、武士の武力衝突による人夫・兵糧米の徴発が頻発していたからです。
一揆の成功とつまずき
当時、山城国の南部では、応仁の乱の収束後も畠山義就と畠山政長の両者が紛争を繰り返していました。
それに付き合わされて疲弊しきった人々は、紛争をやめさせようと一揆を起こして両軍と撤退要求を掲げて交渉を行います。
この交渉は難航したものの、三十六人衆と呼ばれる代表者が、守護に頼らずに自治支配を行うことで話がまとまり、両軍は兵を退くことになりました。
この自治支配の体制を惣国と言いますが、ただこの体制も問題がなかったわけではありませんでした。半済(はんぜい)という税制が採用されたことで、惣国の中でも亀裂が入る結果になったのです。
半済とは、住民が荘園の領主に納めていた年貢米のうち、半分を惣国の方に納めるという制度です。その分を国内運営にあてようという目論見だったのですが、これにより惣国内でも年貢米を取る者・取られる者という対立関係を生んでしまったのが問題でした。