「鎌倉殿の三十年戦争」
戦国時代は応仁の乱から始まった……というのが、日本史における一般的な、だけど漠然とした認識です。
しかし実際には、戦国の先駆けとなったとされる関東の三十年戦争と呼ばれる争乱がありました。それが享徳(きょうとく)の乱です。
この【前編】では、そのきっかけとなる出来事などを解説します。
享徳の乱のきっかけとなる出来事が起きたのは1454年12月で、なんと応仁の乱よりも10年以上前。しかもそこは京都ではなく関東だったというのがポイントです。
そもそもの原因は、室町幕府が鎌倉に設置した鎌倉府でした。
鎌倉府は、室町幕府の設立当時から存在していた幕府の出張機関で、関東10か国と奥羽を支配下に置くものでした。
その鎌倉府の長が鎌倉公方あるいは鎌倉殿です。公方というのは将軍の敬称なので、本来はおかしいのですが、つまり室町幕府の将軍に匹敵する程の要職だったということです。
鎌倉はこの時代でも関東の要所とみなされており、鎌倉公方はとても重要なポジションでした。
その初代は足利基氏。彼は足利尊氏の子であり室町幕府の二代目将軍でもあった足利義詮の弟だった人物で、このことからも鎌倉公方あるいは鎌倉府の重要性が分かります。
では、この鎌倉府で何があったのでしょうか。
「永享の乱」を経て…
ひとつ押さえておきたいのは、鎌倉公方の補佐役として関東管領という役職もあったという点です。
この関東管領は、有力守護大名だった上杉氏が代々世襲していました。ちなみに鎌倉公方も、足利基氏の子孫が代々継いでいます。
トラブルは、四代目の鎌倉公方である足利持氏と、当時の関東管領だった上杉憲実が、所領や管領職の任命問題をめぐって対立したことでした。
この諍いには幕府も介入し、幕府側は関東管領の上杉氏の方を支援します。その結果、追い詰められた足利持氏は1438年に強制的に自害させられました(永享の乱)。
実際には、もともと持氏と幕府との間に不仲があり、そこに上杉氏との諍いが交ざり込んだ形だったようです。上杉憲実は、将来に禍根を残すとして持氏の処刑には反対し助命嘆願も行っていましたが、聞き入れられませんでした。ちなみに当時の将軍は足利義教でした。
上杉憲実はその後、主君を死に追いやったことを後悔して出家。
しかし、彼が恐れていた通り、永享の乱は次世代の争いをも生み出すことになります。