悲劇の奥羽越(おううえつ)列藩同盟…幕末期に東北の諸藩はなぜ団結したのか?

東北と戊辰戦争

幕末~明治の過渡期は、日本国内でも激しい内乱が起きていました。特に戊辰戦争では日本人同士で血で血を洗う戦いが繰り広げられており、これには東北地方の人々も巻き込まれています。

この時、東北地方の諸藩では、新政府軍に対抗するための奥羽越(おううえつ)列藩同盟が結ばれています。

えてして、歴史記述の中で注目度が低くなりがちな東北地方ですが、もともと東北は位置的にも江戸に近いことから、幕府とのつながりが強い藩が多くありました。

特に会津藩主の松平容保は徳川家との関わりが深く、京都守護も勤めています。

よって会津藩の藩士たちは幕府の命を受けて、京都の治安維持のために警備に駆り出されたりしました。また、同じように出羽国の庄内藩も江戸城の警備を務めることがありました。

悪化する薩摩・長州との関係

そこで彼らは、各地で尊皇攘夷運動を行う薩摩や長州の浪人を取り締まります。会津・庄内と薩摩・長州の間に因縁が生まれるのに時間はかかりませんでした。

決定的なきっかけとなったのが、1868年1月に起きた鳥羽・伏見の戦いです。京都を警備していた会津藩・桑名藩と、薩摩・長州軍が京都でぶつかり合うことになります。

この時の薩摩・長州軍の力は圧倒的で、会津藩ら幕府側が敗北したことで、一度戦は終わりを見せたかと思いました。

しかし一部の薩摩・長州藩士は徹底的な討伐を望んでおり、奥羽鎮撫総督府下参謀である世良修蔵は、会津藩の近隣の藩である東北諸藩、特に仙台藩米沢藩に対して会津の討伐を命じます。

ところが、逆に両藩は会津藩や庄内藩を救済するよう願い出ました(その嘆願は却下されています)。

会津や庄内の討伐が思うように進まない世良は、薩摩藩士の大山格之助に密書を書きました。

3ページ目 世良修蔵の暗殺と同盟結成

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