戦国時代最強の武将といえば、9000以上もの騎兵を統率し、知力・武力ともに優れた才能を持つ「武田信玄」や鉄砲隊を結成し、従来の馬を中心とした戦いを覆すなど、画期的な戦術を生み出す天才「織田信長」などが真っ先に挙げられることでしょう。
けれど、そういった華々しい戦国武将たちの陰には「最弱の武将」とよばれた人物もいたのです。
小田氏治の出生
1534年、鎌倉時代から続く関東八名家の長男として誕生した小田氏治(おだうじはる)。小田家を大名にまで導いた名君・小田政治を父に持ち、将来が期待されていた人物です。
1548年7月22日に父・政治が死去し、当時14歳で小田氏の家督を相続した氏治。この当時、北条・佐竹氏らの勢力拡大により、小田家は衰退の一途をたどっていました。
初戦・海老ヶ島の戦いにて大失態
1555年、北条氏の援護を受けた結城政勝が小田家の支城である海老ケ島城に侵攻を開始。
応援要請を求めた海老ケ島城にたいして、氏治は自ら出陣して援軍に行くことを約束しました。しかし、氏治の行動は結城政勝に見透かされており、応援に駆け付けたところを包囲されてしまいます。
結城政勝が仕掛けた「後詰作戦」にまんまと引っ掛かった氏治はこの戦いに敗北し、海老ケ島城は落城する結果となったのです。