信玄の死
前編では、馬場信春(ばば・のぶはる)という人物の人柄などについてお話ししました。
四天王が一人・馬場信春の伝説を見よ!武田家三代に仕えた名将が長篠に散るまで【前編】
40年間無傷の「鬼」馬場信春(ばば・のぶはる)は武田信虎・信玄・勝頼……と武田家一筋で仕えてきた戦国武将で、世に言う「武田四天王」の一人です。また武田家の重臣の最高執政職にあたる「四宿老」、名将を…
後編では、武将としての活躍とその最期についてです。
1572(元亀3)年、武田信玄は将軍・足利義昭の誘いに応じて西上作戦を開始します。
この時信春は、徳川家康の領国である遠江の情報収集を行っています。常に周到に準備してから敵と戦うことを常としていた信玄にとって、信春は最も頼りになる存在でした。
そして、三方ヶ原に徳川軍を誘い込んだ信玄は、明らかに自分が有利な情勢であるにも関わらず、警戒してすぐには動きませんでした。
そこで信春は、家康の陣形を確認した上で「戦えば必ず勝てる」と進言。信玄はこれを受けて突撃の指示を出します。
この時の武田軍の勢いは凄まじく、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰りました。
こうして向かうところ敵なしと思われた武田軍ですが、それから半年も経たないうちに信玄が病死し、息子の勝頼が武田家を継ぎます。
勝頼はいったんは甲斐へ引き上げますが、その後、美濃や遠江に侵攻して織田や徳川方の支城を次々に落とします。そうして版図を広げ、勢いに乗っていきました。