44年の短い生涯
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隻眼・隠密・大剣豪…柳生十兵衛の生涯と数々の「伝説」の真相をさぐる【前編】
もともと、柳生十兵衛は剛毅な性格で、周囲は「恐れ従う」といった感じだったようです。
しかし、家督を継いでからは寛容になって政事に励むようになり、質実剛健な家風を守り、家業の兵法の発展にも努めたといいます。
しかし彼が「柳生藩主」だった期間は短いものでした。慶安3(1650)年、鷹狩りに出掛けた弓淵(京都府南山城村)で急死し、44年の短い生涯を終えます。
十兵衛には跡継ぎとなる嫡子がおらず柳生家は断絶の危機に陥りますが、父・宗矩のそれまでの功績により藩の存続が認められ、同母弟である宗冬が柳生家の家督を継承することになりました。
さらに、三代目藩主となった宗冬は後に加増され、総石高1万石以上となったことで大名に復帰。柳生藩の地位を回復させました。
「隻眼伝説」の真偽は?
さて、柳生十兵衛は一般的には眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。
将軍・家光から特命を受け、幕府の隠密として諸国を遍歴していたというストーリーも存在しています。
こうして、やがて講談の『柳生三代記』などの剣豪物語が人気を博するようになるのですが、実際のところはどうだったのでしょうか?
十兵衛は、以下の2つのいずれかの理由で隻眼になったとされています。
ひとつは、父・宗矩が腕を試すために夜に小石を投げたところ、右目に命中して失明したという説。
もうひとつは、父・宗矩との稽古中に、手元が狂って十兵衛の右目に太刀先が当たって失明したというものです。
しかし、実は、十兵衛が隻眼だったという証拠はありません。
彼の肖像画には隻眼ではなく両目が描かれていますし、十兵衛が書いた多くの書物にも一切そのような記述は一切ないのです。
彼の隻眼伝説がいつ、どこで生まれたのかというのも興味深いテーマですが、少なくとも彼が隻眼だったというのは真実ではなく、後世の創作だと考えられています。
「隠密伝説」の真偽は?
また、幕府の隠密として諸国を遍歴していたというストーリーですが、これもおそらくフィクションです。
彼は名門の家に生まれ、将軍の側に仕えながら、12年もの間江戸を離れていました。そしてそれと同時期に、父の宗矩は諸国大名の監察を司る惣目付(そうめつけ)の職に就き、配下に多くの忍びの者を抱えていました。
これらの事実が、後世の人々の創作意欲を刺激したと思われます。
十兵衛は剣の達人としても知られていました。よって、悪を懲らしめる隻眼の隠密ヒーローとして物語を創作するのに恰好の題材として選ばれたのではないでしょうか?