かつて「坂東武者・鎌倉武士の鑑」と謳われ、天下にその武勇と高潔さを慕われた畠山重忠(はたけやま しげただ)。
しかし武蔵国の利権を貪らんとする北条時政(ほうじょう ときまさ)と対立したため、謀殺されてしまったのでした。
「鎌倉殿の13人」畠山重忠・重保父子に迫る最期の刻。第35回放送「苦い盃」予習【前編】
息子の畠山重保(しげやす)や畠山重秀(しげひで)らもことごとく討死してしまったものの、末子の畠山重慶(はたけやま ちょうけい)は出家していたため命を永らえます。
このまま仏道に邁進し、父や兄たちの菩提を弔う日々を重ねるかと思われましたが……。
生け捕りを命じられた長沼宗政
未尅。日光山別當法眼弁覺進使者申云。故畠山次郎重忠末子大夫阿闍梨重慶籠居當山之麓招聚窂人。又祈祷有碎肝膽事。是企謀叛之條。無異儀歟之由申之。仲兼朝臣以弁覺使者申詞。披露御前。其間。長沼五郎宗政候當座之間。可生虜重慶之趣。被仰含之。仍宗政不能歸宅。具家子一人。雜色男八人。自御所。直令進發下野國。聞及郎從等竸争。依之鎌倉中聊騒動云々。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)9月19日条
時は建暦3年(1213年)9月19日。午後2:00ごろ、日光山別当(現:日光二荒山神社の長官)である法眼弁覚(ほうげん べんかく)の使者が鎌倉御所へやってきました。
曰く「亡き畠山次郎殿の末子である大夫阿闍梨重慶が、寺の麓にならず者たちを掻き集め、何やら熱心に祈祷しております。これはきっと鎌倉殿に対して謀叛を企んでいるに違いありません」とのこと。
取次役の源仲兼(みなもとの なかかね。源仲章の弟)はこれを将軍・源実朝(さねとも)に報告。なるほど謀叛か……無実の父を殺されたのですから、謀叛を起こされる心当たりは十分すぎるほどです。
「果たして事実であるのか、仮に事実であるなら何とか説得して、無用の流血を避けられぬものか……そうだ」
実朝はちょうどその場にいた長沼五郎宗政(ながぬま ごろうむねまさ)に重慶を鎌倉へ連行するように命じました。
「あくまで事情を確かめて、何なら過去を清算して関係を改善したい旨を伝えるのじゃ。よいな」
「ははあ……よっしゃあ!今からひとっ走り行って来まさぁ!」
さて鎌倉殿が御為に奉公できるのがよほど嬉しかったのか、命令を受けた宗政は家にも帰らず、連れて来ていた家子1人と雑色8人だけを連れて鎌倉を出発。真っ直ぐ日光山を目指して駆け出しました。
「え、何があったンですか?」
「ちょっと待って下せぇ!」
主人が勝手に行ってしまったと聞いた長沼一族郎党は慌てふためいて後を追います。その騒々しい様子に、人々はすわ合戦でも始まったかと驚いたと言います。