部下が上司に従うのは、それによって給料や待遇が保証される≒生活の面倒を見てくれるからであり、その前提が崩れてもなお従い続ける人はごくまれでしょう。
いつまでも落ち目の上司にすがっていては、自分までも沈んでしまいかねません。また情義を重んじてその上司を支えるだけの余裕があるなら、なおのこと従う理由がありません。
平和な令和の現代ですらそうなのですから、血で血を洗う熾烈な生存競争が繰り広げられた戦国時代なら猶更でしょう。
そこで今回は、主君の落ち目に乗じて下剋上を果たした三河国の戦国武将・波多野全慶(はたの ぜんけい/ぜんぎょう)のエピソードを紹介したいと思います。
祖先は将門討伐の豪傑・藤原秀郷……?
波多野全慶は生年不詳、平安末期に相模国波多野荘(現:神奈川県秦野市)を領した波多野義通(よしみち。小二郎)の子孫です。
その祖先は藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)、かつて坂東八州に謀叛した新皇・平将門(たいらの まさかど)を討伐した豪傑でした。
義通から九代目の子孫となる波多野行近(ゆきちか)が三河国宝飯郡御津荘(現:愛知県豊川市)に移住して大沢城を築きます。室町時代初期と考えられ、以来波多野家の居城となりました。
【波多野氏略系図】※諸説あり
藤原秀郷……佐伯経資-佐伯経範-(3代略)-遠義-義通-(8代略)-行近-近吉-(4代略)-政家-(2代略)-時政(全慶)
全慶は行近から更に十代目に当たり、その俗名は波多野時政(ときまさ)。この時の字は主君である一色時家(いっしき ときいえ。刑部少輔)から拝領したものです(※以下紛らわしいので全慶で統一)。
この時家は鎌倉公方の足利持氏(あしかが もちうじ)に仕え、相模国守護となりましたが、永享10年(1438年)に永享の乱が勃発。足利持氏が滅亡したため、三河国にいた一族を頼って落ち延びてきました。
永享11年(1439年)に一色城(現:愛知県豊川市)を築いており、時政(元の名前は不明)がその被官として臣従したのはこの頃かと考えられます。