田んぼの中をひたすら進む?江戸時代「新吉原」にはどうやって行っていたの?

小山 桜子

Japaaan読者の皆さんこんにちはんこんにちは。ライターの小山桜子です。江戸時代、新吉原は遊廓(遊郭とも書く)のほか、廓(郭)、遊里、色里、遊所などと呼ばれていました。

江戸市中から見て北に位置していることから、北里、北国、 北州、北廓などとも呼ばれました。

江戸時代は結婚すると浮気や不倫は犯罪でしたが、その代わりたまに吉原に行くくらいであれば、「素人の娘に引っかかるよりは良い」と大目に見る奥さんも多かったようです。

といってもやはり良い気持ちはしないもので、「悪所」だとか「悪所場」などと言って吉原遊郭の事を嫌う人も多くいました。

反対に、遊び慣れた通人や、中に住んでいる遊女、吉原の関係者達はちょっぴり格好つけて「丁(ちょう)」、「里(さと)」、「中(なか)」と呼んで粋がっていました。

落語でも「里」や「中」という言葉がよく出てきますが、それらは吉原遊郭を指していたのですね。さて、今回はそんな通のお客になり切って、吉原への行き方を辿ってみましょう。

3ページ目 日本堤をひたすら進む

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