燃え盛る炎の中で…北条義時の義兄弟・伊賀光季の壮絶な最期・後編【鎌倉殿の13人】

前編のあらすじ

後鳥羽上皇、ついに挙兵!北条義時の義兄弟・伊賀光季の壮絶な最期・前編【鎌倉殿の13人】

源実朝(みなもとの さねとも)が暗殺され、にわかに「主なき宿」となってしまった鎌倉。臨時に執権の北条義時(ほうじょう よしとき)ら一族が政務を取り仕切っていたものの、実質的には彼らが鎌倉の支配…

時は承久3年(1221年)5月14日。鎌倉討伐を図る後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の誘いを断ったために、討伐を受けることとなった京都守護の伊賀光季(いが みつすえ)

決死の覚悟を固めた光季は嫡男の寿王(じゅおう)改め伊賀光綱(みつつな)に逃げるよう命じますが、光綱は武家の男児として父と最期を共にする覚悟を告げます。

夜が明けて5月15日、いよいよ光季ら27名は朝廷の討伐軍を迎え撃つのでした。

贄田四郎の作戦を採用、朝廷の大軍を迎え撃つ

さて、攻め寄せる朝廷方の大将は藤原秀康(ふじわらの ひでやす)・三浦胤義(みうら たねよし)をはじめ大江親広(おおえ ちかひろ)・佐々木広綱(ささき ひろつな。佐々木定綱の嫡男)・佐々木高重(たかしげ。佐々木経高の嫡男)・五条有範(ごじょう ありのり)・小野盛綱(おの もりつな)・肥後前司有俊(ひごのぜんじ ありとし)・糟谷有長(かすや ありなが)・間野時連(まの ときつら)など800余騎。

これを見て、郎党の贄田三郎(にえだ さぶろう)が光季に進言します。

「ここはすべての門を開いて敵をありったけ入れた中へ殴り込み、思い切り暴れまわって最期を飾りましょう」

それに対して、弟の贄田四郎(しろう)が反対意見を出しました。

「小門のみ開けばそこから敵は入って来ます。雑魚は弓で狙い撃ちするとして、名のありげな者だけ中へ入れて一騎討ちで雌雄を決するべきではないでしょうか」

光季は贄田四郎の献策を採用、小門を開けたところ、まず入って来たのは三浦胤義の家人で信濃国の住人・志賀五郎(しが ごろう)。黒革縅の鎧をまとい、葦毛の馬を颯爽と駆ります。

これを贄田三郎が射たところ、矢は馬腹に当たったため馬が暴れ出し、志賀五郎は逃げ出しました。

続く二番手のこれまた胤義の家人である岩崎右馬允(いわさき うまのじょう)、これは贄田右近(うこん)の矢が馬の股(おそらく後ろ足)に命中して退きます。

三番手の岩崎弥太郎(やたろう。恐らく右馬允と同族)も、今度は籠手を射られたため退却しました。

このままでは埒が明かない……四番手には三浦一門の高井時義(たかい ときよし)が進み出て、何とか館の奥深くまで突入できたはいいものの、左股と右籠手を射られて退却。

小門から少人数を入れれば、館の内にいる伊賀勢の方が数で有利……朝廷方の大軍を前に光季らは善戦していました。

2ページ目 烏帽子親・佐々木高重に矢を「お返し」する光綱

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