13世紀半ば、鎌倉時代の日本は、他国から「黄金の国」と呼ばれていました。
そんな日本に目を付けたのが、現代でも歴史上最大の規模と戦力を保持したと語り継がれている「元」という国だったのです。
この記事では、あきらかに劣勢であると思われた日本が、奇跡的な勝利をおさめた戦いについて紹介します。
元とは?
元は、ユーラシア大陸のほとんどを手中に収め、世界最大で世界最強と言われた国でした。国家として肥大しすぎた元は、統治し続けるのが難しい状態。内部は分裂寸前でした。そこで、元の最高指揮者であるフビライ・ハンは黄金が豊富に採掘できる「黄金の国」と世界各国から注目されていた日本に目をつけ、「元の傘下に降りなさい」と書いた書簡と使者を日本に送ったのです。
フビライ・ハンは元の国内統一を図るために、日本を征服して自身の力を誇示しようと目論んだのでした。
日本の対応
当時の日本を指揮していたのは、鎌倉幕府8代執権「北条時宗」。
時宗はフビライ・ハンの使者から渡された書簡を読み、日本を格下に扱う内容に激怒して元の使者を斬りつけたと言います。
なかなか使者が戻ってこないのは海難事故に遭ったためだと考えたフビライ・ハンは、再び使いを日本へ送ります。しかし時宗は、元から使者が何度来ようとも相手にすることはありませんでした。
1度目の襲撃
1274年11月11日、痺れを切らせたフビライ・ハンが約3万の兵を乗せた900隻の船を連れて日本の博多に上陸。侵攻を開始したのです。
一騎打ちの戦いが主流であった日本は、元の得意とする集団戦に苦戦を強いられます。
それでも、日本軍は地の利を活かして大弓を使った長距離攻撃を活用することで、元軍の副将・劉復亨(りゅう ふくこう)を負傷させ、元軍を撤退させることに成功したのです。