恋心を隠し切れず源頼朝の女?に手を出して粛清された安田義資【鎌倉殿の13人】

古今東西、女性問題で人生を棒に振ってしまった事例は枚挙にいとまがありません。

やめておけばいいのに……そう理性では分かっていても、どうしても止められないのが恋愛というもの。

今回は鎌倉時代、とある女性へ思いを伝えたことにより、命を失った御家人・安田義資(やすだ よしすけ)を紹介。

必死の思いは、果たして伝わったのでしょうか。

甲斐源氏の有力者として活躍するも……

安田義資は生年不詳、甲斐源氏の安田義定(よしさだ)の子として誕生しました。甲斐源氏の棟梁・武田信義(たけだ のぶよし)とは従兄弟の関係に当たります。

(※甲斐源氏の系譜には諸説あり、義定が武田信義の弟で、義資は甥とも)

通称は田中太郎、父と共に源頼朝(みなもとの よりとも)の挙兵に合流して文治元年(1185年)8月29日に越後守となりました。

文治5年(1189年)7月には奥州征伐のため従軍して武功を上げ、また建久元年(1190年)11月には頼朝の上洛に供奉するなど、鎌倉政権の中堅どころとして活躍します。

そんな義資が処刑されてしまったのは建久4年(1193年)11月28日。前日に永福寺(ようふくじ。現:鎌倉市二階堂)の御堂供養に参列していたとある女官にあてて、艶書(つやがき。恋文)を投げ込んだためです。

「困ったなぁ……」

女官はトラブルになることを恐れ、黙って艶書をしまい込みました。しかしこれを見ていた龍樹前(りゅうじゅのまえ)という女性が、夫の梶原景季(かじわら かげすえ)に告げ口してしまいます。

「奥州征伐の戦没者を供養する永福寺の境内に恋文を投げ込むなど、不謹慎もはなはだしい!」

景季は父の梶原景時(かげとき)に艶書のことを伝え、景時はそれを頼朝に報告。果たして取り調べの結果、義資は加藤次景廉(かとうじ かげかど)によって梟首(斬首の上さらし首)とされてしまったのでした。

3ページ目 父・義定も連帯責任で……

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