NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、源義経に余りにもあっけなく滅ぼされてしまった平氏。
源平争乱のシーンで表に出てきたのは、平清盛・宗盛・維盛くらいでした。これでは、平氏が余りにも可哀そう。そこで、今シリーズでは、滅びの美学という視点から、平氏の中で特に煌めきを残した人物を紹介します。
今回は一ノ谷の戦いに散った、平忠度(たいら の ただのり)。【前編】では、武将・歌人としての忠度を紹介しました。
敗者から見た「鎌倉殿の13人」文武両道に優れた公達、誰もがその死を惜しんだ平忠度とは?【前編】
【後編】は、忠度の最期についてお話ししましょう。
一ノ谷で壊滅的な敗北を喫した平氏
1183(寿永2)年7月、「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われた平氏は木曽義仲の軍勢に追われ、京の都を脱出します。世にいう「平氏の都落ち」です。
しかし、平氏はこのままでは終わりません。義仲と源頼朝が争っている間に、西国で勢力を取り戻し、四国屋島を本拠として瀬戸内の制海権を握ります。
そして、現在の兵庫県神戸市の一ノ谷に陣城を築き、京都奪還を目指したのです。
これに対し、義仲を滅ぼした頼朝が動きます。後白河法皇の宣旨を得て、平氏討伐に弟の源範頼・義経兄弟を派遣しました。
一ノ谷は、東は神戸市生田区、西は同じ垂水区にわたる細長い場所です。南側は瀬戸内海、北側は山に守られた狭隘な地形で、守りやすく攻めにくい城郭を築くのに最適な場所でした。
総大将の平宗盛は、本陣の福原で安徳天皇を守護。東側の大手・生田口は平知盛、山側の夢の口は平通盛、西側の搦め手・塩屋口は平忠度が将軍として陣取り、源氏との戦いに備えたのです。
源平両軍による戦いは、1184(寿永3)2月7日早暁に始まりました。戦いは平氏軍の優勢に進みました。しかし、源義経による山側からの逆落としの奇襲により、不意を突かれた平氏は総崩れとなります。
平氏本陣に迫る義経勢に対し、宗盛は安徳天皇の御座船を守り海上に脱出します。その間、多くの平氏一門が源氏勢により討ち取られ、壊滅的な打撃を受けることになったのです。