鎌倉殿を補佐して政権の実務を執った、その名も執権。北条時政(ほうじょう ときまさ)・北条義時(よしとき)父子に始まり、その座は鎌倉時代を通じて子孫たちにも受け継がれて行きました。
しかし盛者必衰の理に洩れず鎌倉幕府もいつしか滅び、執権も末代を迎えるのですが、往々にして最後の執権として第14代・北条高時(たかとき)とイメージしがちです。
確かに高時が最期まで実権を握っていたものの、実際のところ執権の職は高時以降も3代約7年にわたり受け継がれていました。
今回はそんな本当に最後の執権・北条貞将(ほうじょう さだゆき)のエピソードを紹介したいと思います。
北条一族の若きエリート
北条貞将は鎌倉時代末期の乾元元年(1302年)生まれと推定。金沢(かねさわ)流北条氏の流れをくむため金沢貞将と呼ばれることも。
若くして鎌倉幕府の評定衆(ひょうじょうしゅう。十三人合議制の後身)や引付衆(ひきつけしゅう。訴訟取り扱い機関)に名を連ね、元亨4年(1324年。正中元年)に討幕計画(正中の変)が起きると六波羅探題として上洛。
京都を押さえた貞将は後醍醐天皇(ごだいごてんのう。第96代)はじめ討幕派の動向を探りつつ治安維持に努め、元徳2年(1330年)に鎌倉へ帰還しました。
しかし討幕の機運は潰えることなく元弘3年(1333年)5月8日、後醍醐天皇の求めに応じて新田義貞(にった よしさだ)が上野国(現:群馬県)で挙兵。
これを討つべく貞将は5月10日に鎌倉を新発。武蔵国鶴見川(現:神奈川県横浜市)で新田方へ寝返った千葉貞胤(ちば さだたね)や小山秀朝(おやま ひでとも)の軍勢に敗れて撤退します。
鎌倉へ引き返した貞将は、死闘の果てに自刃した執権・赤橋守時(あかはし もりとき。北条守時)に代わって巨福呂坂を死守(山内の合戦)。激しい戦闘が5月20日から22日にかけて続いたのでした。
守時らの最期: 鎌倉幕府滅亡のとき、なんと65回もの突撃を繰り返す激戦だった