猛スピードで物語が進んでいくNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。
前半の最大の見どころと思われた源平の戦いも、源義経一人の活躍で、あっという間に平氏を滅ぼしてしまいました。
ドラマの中でも度々「あれほど武門を誇った」と言わせる平氏を、こんなにポンコツに描いているのは、おそらく三谷幸喜独特の史観からなのでしょう。
しかし、それでは平氏が余りにも可哀そう。そこで、平氏にもこんなに立派で凄い人物がいたということを、滅びの美学という視点から紹介したいと思います。
今回は、一ノ谷の戦いに散った平忠度(たいら の ただのり)を2回に分けて紹介しましょう。
大力で武勇に優れた熊野育ちの公達
平忠度は、1141(天養元)年、平氏の棟梁・平忠盛の6男(清盛の異母弟)として生まれました。
忠度が誕生したのは、和歌山県新宮市熊野川町宮井の音川とされます。諸説ありますが、忠度の母は、熊野別当湛快の娘という伝説があり、宮中で女官を勤めているとき、忠盛に見染められ懐妊。実家の熊野に帰り、忠度を出産したとされるのです。
熊野別当とは、熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)の統括にあたった僧で、僧兵軍団である強力な熊野水軍の統率者でした。
当時、熊野水軍は、都を脅かすほどの勢力を持っており、それを味方に付けるため、忠盛は熊野水軍の長と姻戚関係を結んだとも考えられます。
忠度は、18歳まで熊野に暮らしたとされ、その間に熊野三山の僧兵たちと、太刀や弓など武芸の修行に励んだのでしょう。これが忠度を「熊野育ち、大力の早業にていらっしゃった」と『平家物語』が書く所以です。
兄清盛が平氏政権を樹立すると、1178(治承2)年・従四位上、1179(治承3)年・伯耆守、1180(治承4)年・正四位下薩摩守と、忠度は順調に武家貴族としての階段を登っていきます。
しかし、1181(養和元)年2月に清盛が病死すると、平氏の未来に暗雲が立ち込めます。全国的な規模で反平氏の反乱が勃発し、これ以降、忠度も戦火に身を投じることになるのです。