武装解除の日本史!「刀狩り」は戦国時代の豊臣秀吉だけではなかった【前編】

日本人の「武装解除」の歴史

皆さんは「刀狩り」と言えば、真っ先に豊臣秀吉の政策を思い浮かべることと思います。

しかし実は、日本史上で、名称は違えど「武装解除」を政策として採用したのは秀吉だけではありません。

刀狩りを武装解除の一種としてみれば、それ以前にも、また明治昭和にも行われているのです。

今回はそんな、日本人と「武装解除」の歴史を探ってみましょう。

刀狩りは、一般的には時の権力者が農民や僧侶などの一般庶民から武器を没収して所有を放棄させる政策のことを指します。

文献上で最も古い記録として残っているものは、鎌倉時代の安貞2年(1228年)に第3代執権北条泰時が高野山の僧侶に対して行ったものだと言われています。

泰時は、仁治3年(1242年)には鎌倉市中の僧侶とその従者に対して帯刀を禁止する「腰刀停止令」も発布しています。

その後、第5代執権北条時頼の代になると、建長2年(1250年)に対象が鎌倉市中の庶民へと拡大され、帯刀と夜間の弓矢所持禁止令が発令されます。

これらは、武装した寺社勢力が鎌倉幕府にとって脅威となっていたことへの対策として、また鎌倉市中の治安維持を目的としたものだったと考えられ、いわゆる「武装解除」させる意図で行われたものではなかったようです。

その後、鎌倉幕府も滅亡し室町時代中期の応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発、日本中に戦乱が広まると農民たちも戦のたびに駆り出されるようになります。

農民たちも日本刀や槍を所持し、自分たちの身は自分自身で守らないと生き残れない殺伐とした世の中となっていったのです。

能力はあるが身分が低かった者にとっては、主人に取って変わる「下剋上」が可能な、ある意味では魅力的な世の中だったのかもしれませんが、一般庶民にとってはいつ命を落としてもおかしくない時代でした。

2ページ目 最も有名な豊臣秀吉の政策

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